もてラジ ダブチ論争
僕が大好きで毎週欠かさずに聴いているネットラジオ番組 BSもてもてラジ袋 略して「もてラジ」にてこの所ダブチ論争が続いてとても面白かった。
マクドナルドのメニューにダブルチーズバーガー340円なるものがある。バンズにビーフパティとチーズが2枚ずつ挟まれているのだが、マクドナルドにはバンズにパティとチーズが1枚挟まれたシンプルなチーズバーガーが130円で売られていて、パーソナリティのぶたおさんは「チーズバーガー2個買って合体させたらダブルチーズバーガーになるのに値段は260円。ダブチを340円出して買う人の意味がわからん」という趣旨の発言を随分前からしていた。それに対してもう1人のパーソナリティであるテッチャンが「ダブチ好きは納得して買ってるんだからそんな事言わないであげて」と言うのだが、ぶたおさんはどうにも納得しない。こんな矛盾した値段設定の商品は他に例える物がない、買う人の価値観が理解できないと譲らない。
テッチャンがマクドナルドの公式見解で
「元々チーズバーガーは特別に安い値段で提供しているサービス商品で、ダブルチーズバーガーは最適な味になるように調整された商品なのでダブルで楽しみたいお客様はこちらをお召し上がりください」
なるものを説明しても、「何度も食べて比べたけど味に変わりなんかない」とぶたおさんは言う。
ここからは私のダブチ論争に対する見解なのだが、そもそもマクドナルドは「ハンバーガー」と「チーズバーガー」を本来 大人が単品で注文するメニューだと考えてないのではないだろうか。もちろんハンバーガー100円、チーズバーガー130円という商品自体はレギュラーメニューとして存在するが、その表示扱いは驚く程に小さい。隠されてると言ってもいいくらいだ。マクドナルドはこの2種のサービスバーガーは、ハッピーセットなど子供に食べさせるキッズメニューくらいの扱いにしか思ってないように思う。確かに小学生以下の幼児にはハンバーガー1個とポテトなんてセットにされたら食べきれないボリュームだったりするしそれにポケモンのオモチャなんて付けられたら「ママ、マクドにいきたいよー!」ってなって当たり前。親も300円ちょっとで喜ぶならと思って連れて行って自分は800円近くするようなセットメニューを注文させられるというマクドナルドの戦略にまんまとハマってしまうのだ。そうして子供の頃からマクドの味に慣らされてしまった子供は成長してもマクドナルド信者になり今や定食よりも高くなりつつある新メニューを盲目的に食べるようになる。あぁ恐ろしいマクドナルド戦略よ。
大人になってチーズバーガーが食べたいなら「ダブルチーズバーガー」を340円出して買ってくれというのがマクドナルドの本音ではないだろうか。そして多くの大人達はマクドナルドのチーズバーガーといえばダブチで340円で納得してるのである。だからこそダブチはマクドナルドの人気かメニューになっていて先日からはトリチだの何だの「ダブチを超えろ!」キャンペーンなどに至ってるわけだ。 では、ぶたおさんのようなチーズバーガー2個派は間違いなのかというとこれはまた価値観と違いであって一概に全面否定する訳にもいかない。 ぶたおさんの主張はわかり易く例えるならば、ここにAスーパーという店があってこのスーパーはいつも卵が特売品で卵は利益殆ど無いけどそれ目当てに来たお客さんが他にも色々買って帰るので店としては儲かってるとします。Bスーパーは肉が安いのだけど卵はAスーパーより割高。ここで節約派の主婦はAスーパーで卵だけを買って肉は移動してBスーパーで買うわけですが、中には「たかだか何十円しか違わないなら卵も肉もAスーパーで一緒に買って帰る」という人も沢山いるわけです。わざわざスーパー移動する労力と時間を考えたらAスーパーで全部済ませて時間と手間を楽したいと思う人は沢山いるわけです。 ぶたおさんがチーズバーガー2個買って自分で合体させたら60円も安いやん、と説得してもそんなめんどうなことしたくないし340円でも全然納得やし、という価値観の人とはどこまで行っても平行線なのです。 この価値観の違いはどこまで議論を重ねても相容れないし、ちょっとでも安くしたくてスーパーのはしごをする人と高くても一店で済ませて買い物を早く切り上げたい人を僕はどちらも否定できません。 どっちの意見も理解出来るし実際ケースバイケースで自分もどちらの事もやってます。 結局、ぶたおさんとテッチャンはこの件でいくら話しても恐らくは妥協点を見つけられないでしょう。ダブチオーダー派はぶたおさんを「セコイ話やな」と思うかもしれないしチーズバーガー2個派はテッチャンを「無駄遣いやな」と思うかもしれませんが、相手がそれで満足してるのにあえて考えを変えさせる必要がないわけですから自分の論に改宗させようとするのはエゴでしかないですよね。 結論は出ないけどこういうネタを提供してくれるもてラジは楽しいし、もしこれを読んで興味を持った方は是非ネットラジオ もてラジ をチェックした下さい。 絶対面白いから!
マクドナルドのローストビーフバーガーについての錯乱した情報に思う
少し前からブログやツイッターを中心にマクドナルドのローストビーフバーガーについて様々な情報が交錯している。
「マクドのローストビーフは豚肉だった」←全くのデマ
「ローストビーフバーガー食べたらハムだった」←ただの感想
などなど。ほとんどがテキトーな内容で自分では何も調べずに他の記事からの転用だったり憶測やデマばかり。
なぜ、マクドナルドが対象だとこのようなデマや風評が垂れ流されるのだろうか。
断っておくが私はマクドファンでも擁護派でもないし、ロストビーフバーガーを食べようとも思っていない。ただ、このような自分のブログのアクセス稼ぎや炎上目的のデマが横行するのがとても不愉快に感じるだけだ。
それでもこうして自分のブログに何か書こうとするからにはある程度は下調べをしなければならないと思うし、ここで書くことがそれこそデマになってはいけないので言葉を選んで書きたいと思う。
そもそも事の発端はマクドナルドの東京ローストビーフバーガーのアレルギー成分表示の欄に「豚肉」という表記があるのを見つけた誰かが「ローストビーフなのに豚肉が使われてる!」と騒ぎ出したのがきっかけだ。これに対してマクドナルドの広報は製造過程の調味液に豚肉由来の成分が使われているからだと説明したとされている。「とされている」と書いたのは私自身がマクドナルドの広報に確認したわけでもなければ公式HPにも何のコメントもされていないので、この情報自体が未確認だからである。同時にこの広報は「提供する肉の形や量を均一にするため、牛肉を重ね合せて形を整えスライスしている」と答えたとされるため、今度は「それが事実ならローストビーフは成型肉を使ってはいけないので食品衛生法上違法ではないのか」というコメントが溢れ始めた。
こうなるとネットで騒ぎ立てたい輩の勢いが止まらない。
「成型肉ならハムと同じ」
「マクドナルド営業停止も間近」
「100%ビーフじゃなかったのか」
などという声から、
「スーパーで売ってるロースカツやチキンカツも成型肉じゃねえか。何騒いでんだ」
というような的外れなツィートなどもあって呆れかえってしまう。
個人が感想を述べているだけなら仕方ないし止められないのだがタチが悪いのは、殆どが自分では何も調べずに刺激的な言葉だけがリツィートされた結果、「マクドナルドのローストビーフバーガーが危険」という印象を多くの人が受けてしまった。
しかし、これまで書かれたキーワードをもとに少し調べるだけで違った見方もできる。
これはあくまでも私の推測でありマクドナルドの公式発表でもなければ本当のことは判らないのだが、「調味液」という言葉、「肉を重ね合わせて形を整えて」という表現などから、マクドナルドのローストビーフは大手のハムメーカー(日本ハム、伊藤ハムなど)がローストビーフを作るときに採用している「真空調理法」を用いて作られているのだろうということが想像される。普通に考えてみれば明らかだが日本全国のマクドナルドで大量に販売されるローストビーフを供給するのに、いわゆる肉の塊を一つ一つグリルでローストして調理するのは非効率的でありかつ個体差を伴うため販売に向かない。あくまで推測の域を出ないが大量のローストビーフを均一に作ることを前提とすれば、牛肉の塊を「調味液」と一緒にパックして真空状態にし低温でじっくり加熱する真空調理法が適しているし、真空状態にパックされる時点で「肉が重ね合わさって形が整う」はずだ。
この製法は食品衛生法上も全く問題ない。成型肉をローストビーフに使用してはいけないのは本来肉の外側の部分が成型された時に肉の中に混じり込むのが問題なのであって、成型された肉をローストした場合に肉の内部が過熱されずに菌が繁殖する危険性を危惧している。真空調理の際に肉が圧縮されて重ね合わされることと成型の為に生肉をプレスするのは意味が異なる。
ただ、この真空調理法によって作られた半生の肉を「ローストビーフ」と呼んでもいいのかということについては別の問題と言えるだろう。こうして考えればマクドナルドの広報のコメント
「ローストビーフといっても様々な解釈があり、当社では製品化する際に調査、確認の上でこの商品名を決めましたのでローストビーフとして販売しております」
というのも腑に落ちる。
上記の考察はあくまで私の想像なのでこれが真実だとかマクドナルドのローストビーフの正体だなどというつもりは全くないのだが、こんな私でさえ少し調べるだけでこれくらいの想像に辿り着けるのになぜ、ネット民は冒頭のような暴挙に出たがるのだろうか。
最初に書いたがデマや中傷がアクセス数を増やしアフィリエイト稼ぎに繋がるのならば日本のネット社会の将来は真っ暗な気がする。少なくとも私は誰かの一方的なコメントだけを信じて垂れ流す事だけはしないように心掛けているつもりだ。
松屋のプレミアム牛めし
仕事の都合で立ち寄った新大阪駅前で松屋を見かけたら、関西ではあまり展開していないプレミアム牛めしを提供してるというので試しに食べてみました。
食べた感想はというと、もともと松屋好きの僕としては味付けも濃いし肉も柔らかくて食べごたえあるし味的には全く問題ないと思いました。
ただ、食べて思ったのはプレミアムって何なの?って事でした。牛丼1杯が380円というのは普段の松屋からしたらすごい贅沢なのかもしれません。通常はスタンダードな牛めしがみそ汁付きで290円なのですから。
でも380円を「プレミアム」と言われるとちょっと情けなく感じるのは僕だけでしょうか?例えば1杯1000円の牛丼だったらプレミアム感があります。しかも380円であっても吉野家やすき家に比べると味噌汁の値段を考慮するとほぼ変わらない価格設定な訳でプレミアム感はほぼ感じられません。
しかも、よくよく聞くと既に関東ではこのプレミアム牛丼が松屋の標準的な牛丼でありもはや290円のスタンダード牛丼は販売していないのだそうな。関西にいる私は松屋の牛丼は味噌汁付きの290円というコスパ最高の昼飯なわけでそれに比べれば380円はプレミアムなのだがこれがスタンダードなメニューになってしまえば「プレミアム感」は全く無くなります。
なんかフランチャイズなのに地方によってメニュー構成が違うというちょっと変わった状況が松屋自体の迷いや戦略のブレを感じさせられます。
個人的にはこのプレミアムクオリティを保つ事が出来るならいっそ全国の店舗でプレミアム牛めしをスタンダード化して値上げしたらどうかと感じています。少なくとも僕はそうなっても松屋に通うだろうなと思っています。
本気で小説家になろうと思うならラノベに逃げるな!
本やCDが売れない時代になったとよく言われます。特に小説は本屋大賞や直木賞などの話題になるものばかり売れてそれ以外の本は出ては消え出ては消えの状況で作家として印税だけで食べられる人はごく一部と言われます。
こういう話をするとすぐ出てくるワードが「活字離れ」。今の若者は本を読まない。マンガや動画などのメディアには夢中になってまも書籍には興味が無いと言われます。本当にそうなのでしょうか?私はそうは思っていません。むしろ今の若者、特に10代の子達はスマホでSNSやメールのやり取りを日常としていてむしろ文字によるコミュニケーションにはとても敏感だと感じてます。短いセンテンスの中でどれだけ自分の感情を表現するかについては中高生はとても気を遣っていると思います。
問題となるのは今の10代、20代の人達の意思疎通のツールは文字だけではなくスタンプであったり、略語であったりできるだけ短文化し一目で解る表現が主流になっていて長い文章を書く、読むという事への耐性が失われつつある事だと思います。その結果、長編小説を読むとか、じっくりと推敲して自分の意見を言葉に書き連ねるということが好きではない人が増えています。
そんな中でも小説が好きで文章を書くのが好きな人達は少数派でしょうが確実に存在しています。誰もが本を沢山読んでいるうちに自分でも書いてみたいという気持ちになりますよね。そう思う人は沢山いるし、何となく心の中では自分でも書けるだろうという根拠の無い自信を持ってる人もいるはずです。
そういう人は1度でいいから実際に書き始めてみて下さい。今まで沢山読んだ小説からひらめいたアイデア、エッセンス、自分ならこんな話を面白く書けると思ってるその脳内のプロットを文字にして書いてみてください。
おそらくほとんどの人は原稿用紙にして2枚程度で手が止まってしまうでしょう。あれほど頭の中では饒舌にストーリー展開していたはずの物語がいざ文字にしようとした途端に書けなくなってしまうのです。
頭の中の画像、イメージを他人が読んでわかるように表現する事の難しさもどかしさは、実際に文字にしてはじめて解ります。自分では出だしはこんな感じ、途中にこんな展開があって結末はこんなどんでん返しで、というイメージをしっかり持ってるつもりでも結末まで一つ一つ文章を積み重ねていくのは根気がなければ絶対不可能です。勢いやノリで書けるほど小説は簡単ではありません。
こんな苦しさに耐えて一遍の小説を書き上げられる作家の凄さ偉大さには本当に頭が下がります。そしてもう一つ小説を書く際に大事な事があります。それは間違った事を書くと校正チェックで指摘されてしまい下手すると小説全部を書き直さなければならないということです。
わかりやすく言うと、ミステリー小説を書く場合、死因が毒殺であれば何の毒なのか?死後の検死の結果がどうだったのか、アリバイミステリーであれば具体的な交通手段がどうなのかなどキモになる部分で致命的なミスがあると小説そのものが成り立たなくなる可能性があります。実在の人物をテーマにした歴史ものなら現在明らかな史実はどうなのか考証は必須です。
今はネット社会なのである程度は個人が自宅で学べる調べられる事はありますが、小説の重要なポイントになるような事柄がキーボード一つ叩いて出てくるような事では面白いストーリーなど出来るわけもありません。
そこで若い小説家志望の人達が陥ってしまうのがファンタジーに逃げるという残念な道なのです。魔法物、異次元ファンタジーものに設定をしてしまうと前述のような問題はほぼクリアされます。筆者の勝手に作ったルールで全てOKになってしまうのです。
一口含めば即死する毒もあり、死んだ人が生き返るのもあり、相手の心を読むのもあり、何でもあり。そんなフリーな設定なら何も制約無しで物語が作れるので資料を調べる必要も無いし咎められる事もない非常に楽な執筆が可能になりますよね。
その結果が独りよがりな都合の良い面白くも何ともないどこかで読んだような話になってしまうのです。もしもこのブログを読んでいる人でこれが当てはまってしまった人には耳が痛い事かもしれませんが、そんな安易な小説が読者の共感を得られるはずはありません。
本当に小説家を目指すなら、ファンタジーに逃げずにリアルな小説にチャレンジしてください。そこから全ては始まると思います。
うんこ漢字ドリルなんてバカ製造ドリルでしかない!
「うんこ漢字ドリル」がバカ売れだそうな。
私はこんなドリルを子供に買い与える親は最低だし、そんな育て方をされてる子供がろくな成績をあげられなくなるアホになるのが可哀想で仕方がない。
私が初めてこのドリルを知ったのはJRの社内広告だった。1両分の車両の壁広告が全てこの「うんこ漢字ドリル」の広告で私はまずこの「うんこ」だらけの車両が不快でたまらなかった。広告料さえもらえればどんな広告でも掲載するJRの浅ましさにも腹が立った。
そうしてるうちにネットニュースでこのドリルがバカ売れしてるという記事を読み、TVで取り上げられてるのを目にし、遂には民放ラジオで取り上げられてるのも耳にするまでになった。
ここでハッキリ言っておきたいが、こんなドリルで勉強するなんて最悪最低だと思うし、これを子供に買い与えて、子供が喜んで漢字ドリルやってるのを見て、やった!と思ってる親は馬鹿丸出しのダメ親だと思います。
そもそもこのドリルの売りは、例文が全てうんこ絡みの文章なので子供が面白がってドリルをする、というものです。確かにどれを読んでも「うんこ」が出てくるドリルなんて笑ってしまいます。
幼い子供は「うんこ」ネタが好きです。意味不明で「うんこ」と言うだけでゲラゲラ笑ったりします。何でだと思いますか?これは本来「うんこ」は汚いもの、口に出すのも汚らしいものという価値観を破って「うんこ」と言っちゃう事でタブーを破る快感を感じているからです。「あ、言っちゃった」というダメって言われてる事を言っちゃう快感が笑いとなる訳です。子供がホントにうんこが好きで、うんこを見たい、匂いたいとかスカトロマニアみたいな趣味ある訳ではありません。当然親も「そんな汚い事言っちゃダメ!」とか叱ってるはずです。
なのになぜドリルで使うのはOKなのでしょうか?漢字さえ覚えてくれれば手段は問わないというこのやり方が私は絶対許せないのです。子供が興味ある事を学習に利用しようというやり方自体は否定はしませんが、そこにはモラルというものがあるはずです。例えば中学生男子に英語を覚えてもらいたくて教材にポルノを使ったら子供は夢中でやるかもしれません。頭にも刻み付けられるかもしれませんね。でもそれって正しい学習方法でしょうか?
そもそも、自分の興味が無いことは頭に入って来ない、勉強する気にならないという状態は子供の学習方法としては不適当だと言わざるをえません。「何で関わりもない外国の事覚えないといけないの?」「何で目に見えない原子の事なんか知らないといけないの?」「そんな事解っても面白くもなんとも無い」という意見に対して親はどう答えるべきでしょうか?
基本的に子供にとって勉強はそんなに楽しい事ではありません。なぜならその必要性も理解出来てないし、直接的に日々の生活にプラスになる実感が湧かないからです。でもだからといってそれを避けてはいけません。子供にとって勉強は(大人と違って)単なる知識を得たり、思考法を学ぶためにするものではないのです。
一見無意味な事であるかのような事も学習する事によって様々な形で役に立つものであり「つまらない」事でも続ける根気とか地味なルーティンワークの大切さを実感させることが幼児教育の重要な役割です。面白がってやってるから「うんこ」を教材にしてもいいという親は、この「つまらない事でもコツコツやり遂げる」という大切な学習の目的を放棄しているのです。
「うんこ漢字ドリル」を使えば子供は喜んでドリルをし、漢字がわかるようになるのかもしれません。では他の教科はどうなのでしょうか?子供はきっとこういうでしょう「掛け算ドリルなんか面白く無い!うんこの方がいい」
そんな親は「うんこ掛け算ドリル」を待ち望むのでしょうね。
そんな教育方針の親は子供に本気で叱ったり指導したり出来てないと思います。子供が嫌がる事は無理強いしない、子供の顔色を伺ってばかりの子育てが上手くいくはずないのです。
私が耳にしたラジオの特集コーナーでも女子アナがウケるだろうと思って嬉嬉としてこのドリルを買い与えたところ、一見した娘さんがこういい放ったそうです。
「そんな汚いドリル使いたくない」
私はこの娘さんの感覚こそが正しいと思うし、ウケるだろうと思った女子アナは心底恥ずべきだろうと思いました。
美味しんぼに毒された世代
現在50歳手前から30代後半の漫画好きな人はほぼ全員「美味しんぼ」の呪縛から逃れられないようである。
美味しんぼは確かにグルメ漫画のターニングポイントであり、漫画の中に留まらず読者の実生活に多大な影響を与えたと言って過言ではない。なぜそれほどまでにこのマンガは読者に支持され後のグルメ漫画の礎になったのか?僕が考えるに美味しんぼはそれまでのグルメ漫画の根幹であった「美味しい料理は腕のいい料理人がその技術とアイデアの全てを賭けて作りあげるもの」というフォーマットを覆したところにあるのだと思う。
美味しんぼにおける「美味さ」には全て理屈が語られる。例えばお米炊く時に1粒1粒選別して大きさを揃える事で最高のご飯が炊き上がるという話がある。それが本当に美味しいのかどうか読者は確かめようが無いのだがそういう理屈を語られるとなるほどそうかもと思ってしまうのだ。
そういう実証が出来ないような食に関する薀蓄や技法を次々と披露された結果、読者は料理は素材と調理方法にこだわれば美味しくなるのだという固定概念を刷り込まれてしまい毎回新しい薀蓄が語られる度にそれをさも自分が体験したかのような錯覚に陥った結果、自分が何かを喰べた時に美味しんぼで語られてる理論を当てはめてその料理を評価する癖が付いてしまっているのだ。
こう言えばもっとわかりやすいだろうか、鶏肉を喰べる時にその評価基準として「地鶏は身が締まっていて美味い。噛めば噛むほど旨みが出る」などと言いがちである。本当にそうだろうか?同じ肉でも牛肉だと「国産牛で絶妙にサシが入った霜降りは柔らかくて箸で切れる」とか言われる。豚肉にいたっては「肉の持つ甘味がすごい」とか定番の褒め言葉である。
鳥は歯応えがあってOKで牛は柔らかさが最高で豚は甘さって今ではテンプレートになっていますが本当にそうでしょうか?
ケンタッキーフライドチキンを食べて「柔らかくて美味しい」と思い、スーパーのフライドチキンを食べて「なんか固くて身が少ない」とか思いませんか?サシが入ったロースより赤身が美味いと思う人も多いです。
なのに何故か美味しんぼ世代の我々は料理の美味さを表現する時についつい美味しんぼのテンプレート表現を使ってしまうのです。
トンカツを揚げるのには豚の脂を使ったラードでなくては駄目だとか実際に試した事が無くても理屈を言われてあぁそうだなと納得してしまうとそれがセオリーになってしまう。これこそ我々にかけられた「美味しんぼの呪縛」なのです。
食べ物の美味い不味いなどは感覚でしかないのに何故か我々は理屈でその感覚を確認しようとしてしまうのです。この行動パターンは美味しんぼ世代の最たる特徴で何か薀蓄を語りたがる結果、下の世代から疎まれるようになりがちです。
それに対して今のグルメ漫画の主流は理屈を述べるのではなく「理屈じゃなく本能的に揺さぶられるパターン」がほとんどです。孤独のグルメにしても何がどうして美味いのか理屈は語られる事なく「これだ、これだ!」とか「これはご飯に合う」とか食べた感想を次々に表現する事で読者の中にある想像力を掻き立てる方向に特化している傾向が強いです。
今の読者は美味しくなる理屈などあまり興味は無くて、無性に食べたくなるとか箸が止まらないとかそういう表現が好きなんですね。
おそらくは美味しんぼの全盛期、バブルの頃は食事にお金を掛ける事イコール美味しい、もしくは美味しいものは高価になっても仕方がないという認識が美味しんぼによって広められた事が今の30代後半40代の基本的な考え方になってしまったように思います。
そんな世代と食事にできるだけお金をかけたくない今の若者との間には大きな溝があるように思います。そしてその溝は単なる食べ物の好き嫌いではなくライフスタイルとか仕事に対する価値観にも影響を与えてると思いますね。それについてはまたの機会に書いてみたいと思います。
せんざんき が山盛り(西中島 媛)
せんざんき という料理をご存知でしょうか?愛媛や今治地方で食べられている鳥の唐揚げだそうです。ネットで検索すると鶏の骨付き肉の唐揚げとか出てくるのですが実際に今治で食べたことはないので本場はどうなのか知りませんが、新大阪駅近くの西中島でこの せんざんきを名物ランチにしてるお店があります。
愛媛から名付けたのでしょうかその名も「媛」。夜は今治の鶏料理をメインにした飲み放題付きのコースをお安く提供してるみたいですが、私が今回紹介したいのはこの店のランチメニューです。メニューはこちら。
せんざんき定食。鶏の唐揚げとご飯、味噌汁、漬物と付け合せといういたってシンプルな定食なのですが、このせんざんきがまぁデカい!2個でケンタッキーのドラム1個くらいの大きさなのですが、せんざんき定食(小)でこの唐揚げが5個で600円のところを、せんざんき定食(がっつり)を頼むとプラス100円で唐揚げが倍の10個になる!
100円で倍って何なの??って思ってやっぱりがっつりを頼んでしまうと後で後悔するくらいのボリュームが襲ってきます(笑)
流石に10個になるとケンタッキーのドラムが5個分です。しかも特に頼んでないのにご飯も大盛りなんですよ、この店。
最初はおぉ喰べ応えあっていいぞいいぞって感じなのですが5個を超えたくらいから箸が止まり始めます。顎も痛くなる(笑)すごいボリューム。
肝心の味はどうかと言うと、衣はしっかり固めで歯応えありますが鶏肉そのものはジューシーです。個人的にはもうちょい塩を効かせるか味付けを濃くしてくれたら良いのにとは思いますが、ちゃんとポン酢とマヨネーズ系のソースなど3種の調味料が付いていて味変を楽しめるようになっています。
とにかく700円税込でもうお腹いっぱい。僕みたいな唐揚げ好きでももう2、3日は唐揚げはいいかなと思えるくらい満足感あります。というよりもうツライです(苦笑)
ランチに700円なんて贅沢だ、牛丼なら350円だぞと思ってる方もいるかも知れませんが、お昼に食べてこれを書いてる今、23時過ぎなのですが、未だにお腹いっぱいで胃もたれしていて晩御飯食べる気にならないです。昼夜合わせて700円なら安いものかもしれませんね。
単純に唐揚げ1個の味が美味しいかどうかというと好みが分かれるかもしれませんが、一度食べると病みつきになってしまって、しばらくするとまた、せんざんきで嫌ほどお腹いっぱいになりたくなってしまい再訪してしまいました。
お近くの方はぜひ試してみて下さい。
ネットで「西中島 媛」と検索すればすぐ分かります。地下鉄 西中島南方駅のすぐそばです。